おとといここに書いたexcite musicの『町を見下ろす丘』全曲解説の、
“なぜだか、俺は祷ってゐた。”のコメントで、
曲が出来たときは嬉しくて祈りたくなってしまうと宮本さんは語っていました。
http://ent2.excite.co.jp/music/special/elekashi/int_02.html
これが妙に気になって、ここのところぼんやりと考えていました。
エレカシの曲には、神様とか祈るというキーワードがときどき出てきます。
「オ・レ・ニ・チ・カ・ラ・ヲ」「オ・レ・ニ・ユ・ウ・キ・ヲ」
あ~あ、馬鹿馬鹿しいね、オレ 祈ってら
エレファントカシマシ “生命賛歌” 詞/宮本浩次
“生命賛歌”の一節です。
祈る、という言葉を、~ってら、という言い回しにするのがすごい。
いはば流されてしまふこの毎日が いつしか重たくのしかかり
四の五の言はさず時は流れ 過ぎてゆく 神様ぼくを見て。
エレファントカシマシ “流れ星のやうな人生” 詞/宮本浩次
これは“流れ星のやうな人生”で、
最初この曲聴いたとき、≪神様ぼくを見て≫というフレーズにすごくびっくりした覚えがあります。
曲が出来たときは祈りたくなる、ということから、
先だって放送された「ゲストとゲスト」の水道橋博士とのやりとりを思い出しました。
博士の、ライブをやってるときが本業と思うか、という質問に対して、
宮本さんは、
本当はライブの気がする、一番緊張感もあって……、
でも、シンガーソングライターだから、
曲を作って録音するというのが違う意味で盛り上がる作業、と答えていました。
「ゲストとゲスト」に、アンジェラ・アキが出たとき、
自分はライブが本当に大好きで、ライブをやるために曲を作ってるぐらいだ、
と言っていて、このあたりは人によってかなり違うんだなあ、と思って興味深かったです。
「ゲストとゲスト」では、こう言っていた宮本さんでしたが、
病気のあと「音楽と人」のインタビューでは、やっぱり歌いたい、神様には申し訳ないんだけど、
と言っていました。
神様には申し訳ないけど、っていうのがなんとも……
日比谷野音前の宮本さんのコメント「歌わせてくれ」がまた違った感じで響いてくるようです。
曲ができてうれしくて祈ってしまう先生は、
ミーハー的に見ると、とてもさまになると思います(笑)。
一方で、曲を作る、表現をするということは、
孤独な、ひたすら孤独な作業なんだなと思いました。
曲ができてうれしいから祈ってる、というのに、
孤独を思うというのは、ちょっと飛びすぎなのかな。
でも、うまく説明できないけど、そういう気がしました。
もちろんエレカシはバンドだし、プロデューサーの人だって一緒だろうけど、
やっぱり最後は、特に作詞の部分では一人にならざるを得ないというか。
曲ができて祈る姿、
“生命賛歌”の、
≪俺祈ってら≫
エレファントカシマシ “生命賛歌” 詞/宮本浩次
“流れ星のやうな人生”の
神様ぼくを見て。
エレファントカシマシ “流れ星のやうな人生” 詞/宮本浩次
どれも一様に、ぽつんと立ちつくす一人の男の姿が浮かび上がる。
でも、その孤独を、悲しいとかつらいとかいうのではなくて、
忘れていた本当の自分の声
魂の中本当の自分を見つけろ
エレファントカシマシ ”我が祈り” 詞/宮本浩次
と”我が祈り”で歌われるように、
目を閉じて祈る闇のその果てはやがて、
もがきながらも「本当の自分」を照らそうとしているような気がします。
そうした中から生まれた表現だからこそ、
ステージ上の4人のたたずまいがひと際 輝き、かけがえのないものに映るのかもしれません。