Contents
リリース
1999.01.27 20th SINGLE 『愛の夢をくれ』(cw/寝るだけさ)
1999.04.28 21th SINGLE 『真夜中のヒーロー』(cw/旅の途中)
1999.12.08 22th SINGLE 『ガストロンジャー』(cw/soul rescue)
MV
ガストロンジャー(2version)/愛の夢をくれ/真夜中のヒーロー
※「クリップス2」に収録
ライブ
01月03日(日) 、04日(月) 日本武道館 (コンサート 1999 日本武道館)
07月03日(月) 、04日(日) 日比谷野外大音楽堂 (恒例! 夏の野音’99)
など
ライブ映像
- 夢のちまた
(日本武道館 1991.1.4:エレファントカシマシ EPIC映像作品集 1988-1994) - good-bye-mama/真夜中のヒーロー/土手/旅の途中/ビリージャー
(LUST FOR LIVE act.2/赤坂BLITZ:ROCK’N ROLL BAND FES & EVENT LIVE HISTORY 1988-2011) - 四月の風
(MEET THE WORLD BEAT 1999/大阪万博記念公園もみじ川芝生広場:ROCK’N ROLL BAND FES & EVENT LIVE HISTORY 1988-2011) - おまえと突っ走る
(1999年日本武道館”新春ライブ 1999.1:「All Time Best Album THE FIGHTING MAN」【初回限定盤】映像特典)
ライブ音源
- かけだす男(1999.9.2 下北沢 SHELTER)/真冬のロマンチック~inst
(1999.11.23 下北沢 SHELTER:完全限定生産 6枚組ライブブートレグBOX[the fighting men’s chronicle] ~ THE ELEPHANT KASHIMASHI official live bootleg box【Disc 1】complete unknown ~ days of shimokitazawa) - 明日に向かって走れ/はじまりは今(1999.1.3 日本武道館:完全限定生産 6枚組ライブブートレグBOX[the fighting men’s chronicle] ~ THE ELEPHANT KASHIMASHI official live bootleg box【Disc 5】 be there ~ 武道館&新春ライブセレクション)
- 旅の途中/ドビッシャー男
(1999.7.4 日比谷野外音楽堂:「野音 秋」日比谷野外音楽堂 ライブヒストリー 下巻 エレファントカシマシ野音 chronicle2)
1999年のトピック
GLAYショック
宮本「やっぱ彼らは、ちゃんとストレートに自分のやりたいことを実現すべく努力してるんですよ、彼らのやり方で。一方、僕らは--まあ僕らっていうか、僕ですけど--自分のやり方じゃない。なんか、こういうふうにやればいいんじゃないかっていう感じだけで」
bridge 2000年5月号
ポニーキャニオンから東芝EMI期の変わり目、その表現の変化について言及する時、当時よく語られていた「GLAYショック」。
GLAYというのはあの函館出身のGLAYです。「今宵の月のように」でよくTVに出ていた頃、GLAYと一緒になることが多かったらしいのですが、その堂々たるたたずまい、オーラを目の当たりにして、宮本さんは数日具合が悪くなってしまったと言います。
「ガストロンジャー」 リリース
GLAYショックを受け、「愛の夢」で打ち込みにチャレンジし、ついに「ガストロンジャー」がリリースされます。
宮本浩次「僕の好きなドラムの音がそのまま音源にできたんですよ。こりゃあもうほんと渋谷さん、こんなに嬉しい解放感ってねえ……機械ってねえ、機械って、ほんっと素晴らしいと思いますよ!」
bridge 2000年2月号
シングル「ガストロンジャー」。
“バンド”とは距離を置き、”機械”を使い、「表現」ということを第一義にしていた時期。
「機械ってすばらしい」--渋谷さんが笑いながら「タイトルにするぞそれ」とこのあと突っ込んでいましたけど……自分の思い描く音のイメージがそのまま形になるというのは、その解放感たるや、得難い経験だったんでしょうね…
所属レコード会社は、このシングルから東芝EMIに移籍しています。
運転免許取得
免許証を見ると、交付日が平成十一年八月十二日となっている。
宮本浩次「明日に向かって歩け!」 P.52
約一ヶ月で六〇〇〇キロ走破した。
宮本浩次「東京の空」 p.12
宮本さんが車の運転免許を取得したのが1999年だそうです。
当時のインタビューは車のエピソードがとても多い。ポルシェのボクスターを買って、相当乗っていたようです。1ヶ月で6000キロというものすごい走行距離。
この時期の音楽活動のハイテンションと極端な車ライフはお見事にリンクしてるんですね。
執筆活動
渋谷さんに勧められるまま音楽雑誌『ブリッジ』に書いたのがはじめなのである。
宮本浩次「東京の空」 P.96
宮本さんが仕事として文章を書くようになったのもこの年から。最初はロッキング・オンの渋谷さんに勧められて書いたと。
数年の間、宮本さんはいくつかの雑誌で連載を持っていました。週間プレイボーイの連載は約1年間続き、単行本にもなりました(「明日に向かって歩け!」集英社刊)。他にan・anやオリーブに連載していたことも。
「HEY!HEY!HEY!」初登場
フジテレビの音楽番組「HEY!HEY!HEY!」に初出演したのが1999年12月13日。
頭をかきむしる癖を浜ちゃんに、「要するに」という口癖を松ちゃんに、それぞれさんざんいじられたあと「ガストロンジャー」をバンドで披露。 浜ちゃんに「もう1回来て。ゆっくり来て」と言われるほどすっかりそのキャラを気に入られた宮本さんは、実際その後数回、同番組に出演することになります。
私はこれはリアルタイムで見まして、ものすごく笑ったし、テレビの「ガストロンジャー」がめちゃくちゃカッコよくて、ゴールデンタイムのお茶の間にこれが流れているのか!?と思ってすごくわくわくした記憶があります。宮本さんがグレーのちょっと光沢のあるような生地のパンツで、髪のわしゃわしゃ加減も最高でした(笑)
侘助的回想
1999年は「ガストロンジャー」が出た年で、この曲の発表は、当時けっこう話題になったと思います。ロック好きの人たちの間で騒然とするというか。
「愛と夢」で冷めていた私でしたが、この年の「ガストロンジャー」でエレカシ熱を取り戻しました。 一気に復活したわけではなく、何やらエレカシがすごいことになっているらしい、という噂と熱がじわじわと伝わってきて、気がついたら元通りに。というより、前以上に盛り上がってしまうことに。
この年はライブに結構行ってたと思います。新春の武道館も行ったし、Zepp Tokyoとか川口リリアホールとか新宿リキッドルームとか。
リキッドルームが当時は新宿歌舞伎町にあったんですね。6階にあったんですけど、エレベーターがなくて、息を切らせながら階段を昇っていました。
bridge 2000年2月号は宮本さん表紙で、「ガストロンジャー」リリースについて渋谷さんがじっくりインタビューしている号です。
この記事の最後の方で、渋谷さんが結構たきつけてるんですね。バンドである必要もないんじゃないか、とか。「孤独を恐れてごまかしてないよな?」とか。別にソロをやれ、と直接的には言ってないけど、そういう言葉で宮本さんの心中をはかっているというか。
宮本浩次「例えば僕が1人で、宮本浩次でいたほうがはっきり言ってわかりやすいんじゃねえかっていうのはあるんですが、ただ同時にですね、このバンドは非常に得難いストーリーを持ってる、『こいつら面白いじゃないか』っていうところも捨てきれないような気がするんですよ。それは臆病なのかもしれないんですけども。なんかそういった、こうどっか奇跡を願う心情っていうんはあるんですよねえ……」
bridge 2000年2月号
渋谷さんの挑発にも淡々と答える宮本さんです。
目先は新しい表現に向かいつつも、やはり”バンド”としての自分たちという、核となる大事なものはきっと自覚していたということなんですね。
奇跡を願う心情。その奇跡が果たされつつあるような30周年イヤーの今年、あらためて当時の記事を読むと感慨深いものがあります。
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