宮本さんのお母さんの話は、宮本さんの口からときどき出てくることがあって。
エレカシのライブは爆音がうるさいので耳栓をして見ているとジョージさんの番組で言っていたし、
赤本には、中学・高校時代はかなり母親に当たり散らした(宮本少年が暴れ醤油の瓶が割れてそれを片づけるお母さんを見てますます腹が立った)という話もあったり。
中でも、高校生の頃に曲を作ってはお母さんに聴かせていたという話はとても印象的で、
思春期で多少暴れたりしてても、親御さんはきっと良き理解者だったんだろうなという気はします。なんとなく。
詞に親のことが出てくるアルバムと言えば『扉』。
“生きている証”は
父をこえたいココロ/母をもとむるココロ
エレファントカシマシ “生きている証” 詞/宮本浩次
という詞で始まるし、
“化ケモノ青年”は「父」が登場する詞。間接的に「母」も。
でもやっぱり親のことが印象的に出てくる歌と言えば“地元の朝”。
実家に帰る一晩、半日のことを描いた詞が本当にいい。
二親ともすでに七十に近いんだ
エレファントカシマシ “地元の朝” 詞/宮本浩次
という詞があるけれど、
ひいては、自分ももう若くはないんだということを、老いた親と会うことによって切実に感じたのかもしれません。
いろんな思考がかけめぐる中で、この曲の終わりでは、
体の全て使い尽くして死にたい
(同上)
と歌われます。
親を想い、自分と向き合って、そんな決意に至るというのは、なんていうのか、かっこいいし、
二親に捧げられし愛を/一体どうやって返そうか?
(同上)
という自問に対する、
これ以上ない答えだという気もします。
親御さんはこの曲を聴いてどんなふうに感じたんだろう。でもやっぱりうれしかったんだろうな。
今日は宮本さんのお誕生日だったので、誕生にちなんで「親」にまつわるお話でした。
もう一日も終わりますが、お誕生日おめでとうございます!
当の本人はというと、誕生日でお祝いされるのは照れくさいタイプなのかもしれず、
なぜ照れくさいのか、頭をもしゃもしゃさせながら理由をじっくり語りそうですが(で、多分別の話に飛ぶ)、
でもめでたいものはめでたい! と思います。
宮本浩次という人の存在が、その人から生み出される表現が、一体どれだけの人の生活を彩り、励まし、救ったか、本当にはかりしれません。
同じ時代に過ごせる幸運をしみじみ感じながら、今は活動休止中ではあるけれども、また表舞台に戻って来てくれることを信じてじっくり待ちたいなあと、今日またあらためて思ったのでした。映画の予告編で明るい兆しが少しだけでも見えたのは本当にうれしいことでした。
